早雲寺について
二代氏綱が父、早雲の遺命により大永元年(1521年)に創建した古刹である。
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めにより消失したが、寛永四年(1627年)菊経和尚により再建された。
中門脇の鐘楼の梵鐘は小田原攻めの際、石垣山一夜城で使用された。

禅寺の風光
山門を入ると自然林を背景とした伽藍と境内の静寂な佇まいがある。この自然林はヒメハルゼミの貴重な生息地で県の保護林に指定されている。竜虎図ほか方丈(本堂)の襖絵(県重文)と枯山水庭園は、江戸時代初期再建後の遺構ではあるが、禅寺の風光をのこし室町時代以降に花開いた禅文化の近世箱根における遺産の一つとも言える。樹齢六百余年の槙をはじめ様々な樹木は四季によりその彩りを変える。虚飾を廃し自然のなかに溶け込んだ早雲寺の風光に禅が求めた姿のひとつがある。
写真:北条五代の墓所
歴史と文化
室町時代の連歌師飯尾宗祇は文亀二年箱根湯本で亡くなった。江戸時代になると、供養塔のある早雲寺は宗祇終焉の地として多くの俳人が訪れ、稲津祇空のように晩年墓守りをする人物も現れた。 戦国時代、東国で異彩を放った水墨画家雪村周継は、開山以天和尚を慕って早雲寺に滞在しその頂相を画いている(大徳寺所蔵)。 天正十八年北條氏の庇護を受けていた堺の茶人山上宗二は、師利休に再会する為早雲寺を訪れ、四月十一日師の面前で秀吉に惨殺された。 早雲寺の山門と方丈の扁額には江戸時代初期、朝鮮通信使写字官の書が掛けられ、この寺が日本の歴史と文化の大きな流れのなかで存続したことを実感させる。

開山堂以天宗清和尚像
文明四年京都伊勢氏の被官蜷川氏の子として生まれる。泉涌寺で得度、のち紫野大徳寺で東海宗朝に嗣法。以天は早雲が大徳寺において参禅した春浦宗熙の法孫にあたる。伊豆韮山香山寺から早雲寺に入り、早雲・氏綱・氏康三代にわたり北條一門の帰依を受けた。大室宗碩(小田原風祭宝泉寺開山)など多くの弟子を輩出、大徳寺関東龍泉派を形成した。この法系から江戸時代、細川・前田・柳生など諸大名の帰依を受けた下谷の広徳寺や小笠原氏の赤坂種徳寺が生まれている。

美術・工芸
早雲寺の遺宝のうち早雲画像(国重文)、氏綱・氏康画像(県重文)以外で注目されるのは、伝宗祇所持織物張文台硯箱(国重文)と早雲寺芹椀、機織図・枇杷小禽図・伝雪村筆三羅漢図(以上県重文)・式部輝忠筆達磨図など北條時代の絵画類である。文台硯箱の織物は初代龍村平蔵により早雲寺文台裂として複製され名物裂の一つとなっている。芹椀は中世漆器組椀の名品である。その他開山以天宗清頂相(県重文)以下歴代住職の頂相類や中世文書、土佐光起筆北條五代画像・宗祇画像、鎌倉時代末元徳年銘梵鐘(県重文)など多くの文化財を蔵し、早雲寺は小田原北條文化をしのぶ貴重な宝庫となっている。
